レイキの起源(一般説)
 レイキのの起源
 19世紀の半ば、神学校の校長をしていたと言われる、臼井甕男(ウスイ・ミカオ)氏 (1865〜1926)は、生命の神秘と字宙エネルギーの活用法について探究を続けていまし た。 長年の研究の末、サンスクリット語の教典の中に「宇宙生命エネルギー」を活性化 し、上手に活用する手がかりを発見した臼井氏は、 この方法をより明確にし、実用化で きる様にしたいとの思いから、京都の鞍馬山にこもり、21日間の断食と瞑想を行いまし た。


予定の21日が終了する日の明け方、ついに臼井氏は光輝くシンポルを感得し、これ以 後、彼が手を触れると周りの人に奇跡のような癒しと浄化が起こるようになりました。
この啓示によって得たこの方法は「靈気(レイキ)」と呼ばれ、世間の脚光を浴びること になります。


(写真は臼井甕男の生家)


近代のレイキ

 現在レイキは、日本でもよく知られるようになってきましたが、それは日本国内で伝承 され続けてきたものではなく、海外から逆輸入されたものです。

 1935年ごろ、ハワヨ・タカタという日系のハワイ女性が、病気の静養のため両親の故 郷である日本へとやってきました。ハワヨ氏は、レイキクリニックで治療を行っていた、 林チョウジロウ氏にレイキの手当てを受け、数ヵ月で、劇的な回復を遂げました。
 その後、ハワヨ・タカタ氏は、林チョウジロウ氏からさらにレイキの指導を受け、レイキ マスター(教師)となり、ハワイに帰り治療活動を行い、22名のレイキマスター(教師)を 育てます。それから、約15年ほどの間に、レイキは欧米諸国に徐々に広まっていき、ハ ワイ、アメリカ、ドイツ、オ一ストラリアなどで急速に発展しました。

 現在では、レイキは世界各国で愛用され、その数は300万〜400万ともいわれてい ます。
一般説以外のレイキに関する情報
(臼井氏のその後について)
 臼井氏は、レイキを今日の体系に作り上げた後、京都を離れ、大正11年に東京に学 会を設立しました。地方に呼ばれる事も多かった臼井氏は、大正15年3月9日、旅先 の広島県福山にて、一人寂しく没したといわれています。

 当方の調査では、大正末期にレイキが国家の弾圧を受け、臼井氏は逃亡の果てに、 福山で没したと考えられます。
 臼井甕男氏が父と兄と共同で 寄進した臼井家ゆかりの神社の 鳥居。
 鳥居に記載された、臼井甕男 の名前が見て取れる。
 寄進されたのは大正14年。
 故郷に錦を飾った翌年、甕男 は弾圧の果てに福山で死亡し たと考えられる。
 何という皮肉な運命か。

 臼井氏の後、レイキがどのように日本国内で継承されたのかは、はっきりしていませ ん。

 退役軍人であった林チュウジロウ氏が、臼井氏よりレイキを受け継ぎ、東京信濃町 で、レイキ・クリニックを開き、戦前まで、多くの人々の治療にあたったと一般には伝えら れていますが、恐らく林氏は今で言うレイキの教師であったと考えられます。

 当方の調査の結果、臼井氏は当時7歳の女の子にレイキの全伝を継承したと言う説 も確認されています。当時はレイキが弾圧されていたために、後継者が表立って治療な どを行うことは少なかったようです。関係者たちも鳴り潜めたために、その後は、レイキ が、誰にどのように伝えられたのかもはっきりせず、国内では徐々に忘れ去られて行っ たと考えられています。